「ジュニア編」4巻男子フリー完全版!

2019年10月17日

14・白熱の男子フリー

 今日は昨日までとは逆に、美桜ちゃんの公式練習が終わるころに待ち合わせて、男子フリーの応援に向かった。
 ほんとうは後半グループだけ見るつもりだったんだけど、全日本ジュニア優勝者の牧島くんが、まさかの二十四位に沈んでしまったせいで、第一グループから応援することになった。
 さっきから千尋ちゃんがわたしたちにむかって、しきりに申し訳なさそうに「ごめんね。マッキーがごめんね。」ってあやまるのがすごく気になってしまう。
「マッキーが(予想外に低い順位だったせいで最初から応援に来てもらうことになっちゃって)ごめんね。」という意味だとは、わかってるんだけど、そんなにあやまってると、知らない人が聞いたら、マッキーって人が悪いことでもしたみたいに聞こえちゃうよね。
 ほんとに、牧島くんのことは他人とは思えない。
 パーソナルベストで比べたら上位グループに入っても不思議じゃないのに、大きな失敗をしてショート落ち寸前の低い得点になってしまった。
 しかも滑走順も、わたしも牧島くんも、フリー全体の一番滑走なんだ。
 開会式後のショート抽選会では、一番滑走を引いたとき、牧島くんは「よっしゃ~っ!」って叫びながらガッツポーズしてたんだけど、フリー抽選のときには、そこまで喜んではいなかったらしい(塁くん情報)。
 やっぱり冷静に考えたら、試合がはじまってまず最初にすべるなんて、ものすごく緊張すると思うもの。
 わたしも同じように、第一グループの一番滑走を引き当ててしまったから、牧島くんの気持ち、痛いほどよくわかるよ。
 さすが全日本選手権ともなると、ショートの下位から六人がすべる第一グループでも、みんなスケーティングのスピードは速いし、六分間練習で四回転ジャンプに挑戦している選手も少なくない。
 むしろ、これ以上順位を落とす心配がないぶん、やる予定のなかった大技をプログラムに組み込もうとしている選手もいるみたい。
 その代表格が、我らがマッキー=牧島くんだった。

 重々しいオーケストラの序奏から、悲劇を描いたオペラ『トスカ』の幕が開いた。
 最初、この曲を牧島くんが演じるって聞いたときには、ほとんどみんなが「選曲ミスじゃないの?」って心の中で思った。
 直接話したことはあんまりないけど、演技やそのあとのキスクラでの態度を見ているだけでも、牧島くんがいつも明るくてちょっとお調子者キャラなのは、みんなよく知っている。
 それだけに、全日本ジュニアのフリーで牧島くんが、恋人・トスカを残して処刑されてしまう画家・カヴァラドッシの悲しみをうまく表現できていたことに、見ていたみんなはおどろいて、地響きをたててスタンディングオベーションがおこったのだった。
 今回も、カヴァラドッシの歌うアリア『星は光りぬ』の前奏部分の哀愁ただようメロディーに乗って、牧島くんは最初のジャンプへの助走に入っていく。
 ものすごいスピード。これは……きっと四回転をとぶつもりなんだ。
 両足が少し「ハの字」に見えるような形になって、そこからぐっと氷を押すようにふみきる。
 力強く、空中高く舞いあがる、四回転ジャンプ。
 四回転サルコウは、着氷もカンペキだった。
 と思った次の瞬間、牧島くんはもう一度、氷をけって空中に舞いあがった。
 クワドサルコウ+トリプルトウループ!
 たぶん、最終グループでもとべる選手は二、三人しかいない、四回転+三回転のむずかしいコンビネーションジャンプに、牧島くんは成功したんだ。
「きゃーっ! やった~マッキ~!」
 となりで観ていた千尋ちゃんが、座ったまま座席の上でピョンピョンはねている。
「うそでしょ! クワドサルコウのコンボって、すごすぎるぅっ!」
 美桜ちゃんまでが、興奮のあまり、両手のこぶしをにぎりしめてプルプル振っていた。
 わたしと優羽ちゃんも、歓声をあげながら思いっきり拍手をおくった。
 すごいすごい、ってみんな口々にいってるうちに、もっとすごいことがおこった。
 二本目のジャンプ、全日本のときにはトリプルアクセルからのコンボだったところで、牧島くんは単独の四回転サルコウをとんだんだ。
 ちょっと着氷の流れが詰まった感じではあるけど、ちゃんとした成功ジャンプ。
 これで七本あるフリーのジャンプ中、二本も四回転をとんだってことになる。
 アリアの歌声に乗せて、ゆったりとしたスケーティングでみせるステップシークエンス。
 そのラストに、トリプルアクセル+シングルオイラー(前のシーズンまではシングルループと呼ばれていたつなぎのジャンプ)+トリプルサルコウの連続ジャンプがきれいに決まった。
 ほんとにすごい! ここまで、ジャンプだけじゃなく、スピンもステップも、まったくミスなしなんだよ!
 それに、全日本ジュニアのときもそうだったけど、以前の牧島くんには時々あった、ジャンプが決まったら曲調に関係なくガッツポーズ……みたいな雰囲気ぶちこわしのパフォーマンスもなくなっていて。
 しっとりと悲しげなオーケストラの音色とテノールの歌声に乗って、ちゃんとオペラの登場人物の人生を演じていた。
 今シーズン手に入れた豊かな表現力をそこなうことなく、初めて試合で挑戦した四回転からのコンボを成功させた牧島くんは、再びのスタンディング・オベーションの嵐の中で演技を終えた。
 力を使い切ったのか、キスクラでは肩で息をしながらひたすら汗をふいていた牧島くんは、今までのフリーのパーソナルベストを二十点以上も更新する、すごい点数が表示されると、思わずコーチに抱きついて号泣していた。

 ものすごく大きな「漬け物石」が、電光掲示板の一番上に、燦然(さんぜん)と輝いている。
 牧島くんの熱演に影響されたのか、二番滑走以降の選手たちも、ほとんどがそれぞれのパーソナルベストを更新していた。
 いわゆる「神大会」になりそうな雰囲気が続いていて、観ているわたしたちもずっとワクワクしっぱなしだった。
 元のパーソナルベストが高かったこともあって、第二グループが終わるまで、牧島くんの得点を抜く選手は現れていない。
 整氷車がリンクを走り回る、二十分間の休憩時間のあと、第三グループの一番滑走で、ついに塁くんの出番がやってきた。
 前をバックルでとめる形式の黄色いジャケットと、たてのラインが入って足長に見える黒のズボン。
 塁くんが演じる『ボヘミアン・ラプソディ』を歌うクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーを画像検索すると最初のほうに出てくる写真の衣装をアレンジしたものだと、クイーンファンならすぐにわかるだろう。
 まるで天界から舞いおりてきた音みたいな、美しい男性コーラスが響(ひび)きだすのと同時に、塁くんはすべりはじめた。
 コーラスの音色に背中を押されるように、ものすごい勢いで最初のジャンプの助走に入っていく。
 全日本ジュニアのときには、コーチの木谷先生の言いつけを守らずに、勝手にとぼうとした四回転ジャンプ。
 だけど今回は、ちゃんと先生の許可もとって、必死で練習してきていどんでいるんだ。
 桜ヶ丘のリンクではずいぶん見なれてきた助走の角度から、塁くんは左足のトウを勢いよくついて、高く舞いあがった。
 とびあがった瞬間、やった、成功した! ってわかるぐらい、回転軸の角度も回転速度もカンペキだった。
 初クワドが決まった! と、客席から拍手が湧きおこった瞬間、悲鳴のような歓声がおこった。
 カンペキな着氷の直後に、塁くんはまた左足のトウを氷に突いて、再び空中にとびあがったんだ。
 これは……塁くん絶対、牧島くんのフリーどこかで見てたよね。
 塁くんも、単独のクワドトウループの予定を変えて、四回転トウループ+三回転トウループのコンビネーションに変えてきたのだ。
 セカンドジャンプの着氷で、ちょっとだけ「おっとっと……。」って感じにオーバーターンになりかけたのを、すんでのところでこらえた。
 単独にしておいたら加点がすごくついたはずなのに、着氷に流れがなくなっちゃうと、加点が減ってしまうのがもったいないなぁ。
 そのときはそんなふうに思ったんだけど、すぐに塁くん自身が、わたしたちの残念に思う気持ちをぬりかえてくれた。
 トリプルアクセルを、コンボと単独の二回きちんと成功させたあと、なんともう一度、単独の四回転トウループに挑戦して、なんとなんと成功させたんだ!
 四回転サルコウと四回転トウループの基礎点の差や、PCS(演技構成点)の差もあって、フリーの点数ではまだ牧島くんの方が上だったけど、トータルの点数では、塁くんのほうがわずかに牧島くんを追いこして一位になったのだった。

 塁くんから四人をはさんで、十八番滑走は同じ桜ヶ丘スケートクラブの田之上秋人くん。
 美桜ちゃんも、近くの関係者席にいる真白ちゃんも、みんないっしょに「秋人くん、ガンバー!!」と声援をおくった。
 はじめて出会ったときからずっと、いつも秋人くんのとなりには瀬賀くんがいたので、つい忘れてしまいがちなんだけど。
 おとぎ話に出てくる王子様みたいな、キラキラの衣装を着て、演技最初のポーズをとっている秋人くんの横顔は、ハッとするほど美しかった。
 年下のわたしがいうのもおかしいかもしれないけど、瀬賀くんは「かっこいい」んだけど、秋人くんは今まで「かわいい」って感じだったの。
 でも、今日の秋人くんはほんとうに美しい……っていうか「うるわしい」って言葉が一番合うかも。
 流れ始めたのは、プロコフィエフのバレエ『ロミオとジュリエット』から、「モンタギュー家とキャピュレット家」という曲の中の、有名な重々しい旋律だ。
 そう、秋人くんが演じているのは有名なシェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』の主人公ロミオ。
 中世の貴族の役だから、袖の少しふくらんだ、ちょっとバレエの王子様衣装に似た格好(かっこう)をしている。
 重厚なメロディーに乗って秋人くんが挑んだのは、四回転のトウループ。
 あっ、ちょっと着氷でバランスを崩して左手の指先が氷をかすったみたい。
 でも、回転はきちんと四回転まわれていたから、転倒にくらべたら全然マシなミスだ。
 ……って思ってたんだけど、よく考えてみたら最初の四回転ジャンプって、コンビネーションにする予定じゃなかったっけ?
 ということは、次にとぶ、ほんとうは単独ジャンプのはずの四回転トウループの方に、ふたつめのジャンプをつけなきゃいけないんだ。
 どちらも単独ジャンプになってしまうと、片方の点数が七割しかもらえなくなってしまう。
 重々しい曲調が終わると同時に次のジャンプをふみきるとき、わたしも美桜ちゃんも祈るように両手を組み合わせて見つめていた。
 勢いよく氷面をふみきった秋人くんは、さっきよりも高く空中に舞いあがった。
 今度こそ余裕を持って四回転しておりてくると、また左足のトウでふみきってとびあがる。
「やった! コンボ成功したぁ!」
 思わずさけんだ美桜ちゃんと、わたしもハイタッチして喜んだ。
 四回転ジャンプの余韻が消えるのとシンクロするように、曲調は軽快な三拍子のダンス音楽に変わった。
 ダンス音楽といっても、中世ヨーロッパ風のメロディーで、ところどころに美しい女性の歌声がちりばめられている。
 ここからはプロコフィエフのバレエではなく、わりと新しい二〇一三年に作られた映画版『ロミオとジュリエット』のサウンドトラックを使っているんだそうだ。
 いろんな作曲家や映画の『ロミオとジュリエット』をミックスした編曲はフィギュアスケートでは多いんだけど、この組み合わせはめずらしいんじゃないかな。
 舞踏会の場面で流れている音楽に乗って、秋人くんロミオは見えないジュリエットの手を取りながら、サーキュラーステップをふんでいる。
 その辺りまで、めだったミスはなかったんだけど、有名なバルコニーのシーンで流れる『愛のテーマ』に入るところでとんだトリプルアクセルが、パンクしてシングルアクセルになってしまった。
「ガンバッ!!」
 失敗するとすぐに、あちこちから励ましの「ガンバ」がとんだ。
 秋人くんの表情が、いっそうキリリとひきしまったように見えた。
 また残っていたトリプルアクセルからのコンボや、トリプルルッツなどのジャンプを、冷静に決めていく。
 ラストのコレオシークエンスでは、ジュリエットをいとしげに抱きかかえたような仕草からのハイドロブレーディングに、大きな歓声と拍手がおこった。
 ラストは、小瓶の毒薬を飲みほすパントマイムからのシットスピン。
 脚の間を通して下におろした腕に、少しずつ動きをつけながら、だんだんスピンの速度を落としていく。
 曲の静かな終わりと同時にスピンも止まったとき、秋人くんは、片膝をついてもう片方の脚は後ろにのばし、上半身はうつむいて両腕の力をぬいてだらりとたらした体勢で止まっていた。
 その姿勢には、ジュリエットが亡くなったと思いこみ、後を追って自殺したロミオの姿が表現されていた。
 しばらくほとんど無音だったあと、割れんばかりの拍手がわきおこった。
 ミスはいくつかあったけれど、スタオベしている人も少なくなかった。
 トリプルアクセルの失敗があったからか、満面の笑み、というわけではないけれど、客席が盛り上がっているのを見て、秋人くんははにかんだ笑みを浮かべながら四方におじぎをした。
 そのほほえみをとらえた瞬間の写真があまりにも可憐だったもので、このプログラムのことは後日『ロミオとジュリエット』ではなく『ロミオがジュリエット』または『ロミオでジュリエット』と呼ばれるようになったらしい。

 秋人くんの得点が発表されると(現時点で塁くんに次いで二位につけた)、最終グループの六人がリンクインした。
 最終グループ、一番滑走の結城葵くんから、また最終滑走になってしまった瀬賀くんまで、ひとりひとり紹介されるたびに、客席から悲鳴のような歓声がおこる。
 フリーではコンボをふくめた複数の四回転ジャンプに挑戦する構成の選手ばかりの中に、四回転を持っていないジュニアの和真くんが入っているのは、ほんとにすごいことだと思う。
 なんといっても、今高校一年の和真くんだけど、本格的に選手をめざしてスケートクラブに入ったのが中学一年のときーーたった三年前だっていうのが信じられないよね。
 男子と女子では選手数がちがうけど、和真くんの活躍を見ていたら、小学四年から本格的にフィギュアをはじめたっていう真子ちゃんも、近い将来いっしょに全日本に出られるんじゃないかなって本気で思う。
 女子の六分間練習ではそうでもないんだけど、男子の場合、それぞれの選手が体があたたまってきてジャージの上着をぬいだ瞬間、再び悲鳴に近い歓声があがる。
 やっぱり、試合の順位を決するフリーで使う衣装は、どの選手も気合いが入っててカッコいいの。
 今まで、グランプリシリーズやアイスショーなんかで見たこともあるはずなのに、なんでそんなにキャーキャーいうの? って思う人もいるかもね。
 でも、シニアのトップ選手たちはけっこうシーズン途中で衣装を変えたり、手直ししたりするんだ。
 今回も、前年度王者の美里さんのフリー衣装が、グランプリファイナルのときとはガラッと変わっていて、ジャージをぬいだ瞬間、会場全体がゆれるかと思うぐらいの悲鳴があがった。
 美里さんはフリーでムソルグスキー作曲の交響詩『禿げ山の一夜』を使っていて、ファイナルのときはたしか、そで口やえりに炎のような赤いヒラヒラと、全体に金や銀のスパンコールのついた黒い衣装だった。
 夜にさまよいだした者すべてを焼きつくす炎の魔王……っていうイメージらしいよ、ってネットに載ってた美里さんのインタビューを読んだ美桜ちゃんが教えてくれたんだけど。
 今日着ている衣装は、それとは全然ちがって、とがったえりを立てたデザインの、ウエストを細くしぼったふつうのタキシードに見える。
 ただ、右肩のほうにだけ短いマントみたいな布がついていて、その裏側が、炎のような赤になっていた。
 それと、しぼったウエストから下がうすくてひらめくような生地になっていて、その裏側も赤。
 光沢のある生地のベストとゆるく結んだネクタイも赤で、黒と赤の対比がめちゃくちゃカッコいい。
 なんだか「魔王感」がうすれたような気がするんだけど、この衣装でどんな『禿げ山の一夜』を演じるんだろうか。
 
 最終グループのトップバッターは、地元大阪出身の結城葵くん。
 瀬賀くんと同い年で同じ時期にシニアにあがり、同じようにグランプリ大会で表彰台に乗ったこともある、期待の若手のひとりだ。
 ジュニア時代は、お互いにライバル視していたらしいけど、今シーズンは葵くんの四回転の調子が安定しなくて、ちょっと瀬賀くんに差をつけられた形になっているようだった。
 この全日本のショートでも、四回転サルコウはカンペキだったけど、四回転ルッツではオーバーターンしてしまいコンボを失敗していた。
 葵くんが逆転優勝をねらうためには、上位ふたりのとべない四回転ルッツを成功させ、なおかつノーミス演技をする必要がある。
 ミュージカル『ラ・マンチャの男』の軽快な音楽に乗って、最初のジャンプ、四回転ルッツへの助走に入っていく。
「あっ……。」
 観客みんな、声にならない声やタメ息をもらしてしまった。
 勢いよくふみきったように見えたのに、葵くんの体は細い回転軸を作れずに、フワッとほどけておりてきてしまった。
 二回転ルッツ……いわゆる「パンク」というわけで、いきなりの失敗ジャンプになってしまった。
 決まると豪快なジャンプをとぶタイプの選手が、一度ジャンプのタイミングを取れなくなると、なかなか立ち直れないことが多い。
 今日の葵くんもそうだった。
 四回転ルッツの二本目にも(コンビネーションにするつもりで)挑戦したけれど、今度は回転軸がゆがんでしまって、回転はしたものの転倒してしまった。
 四回転トウループはなんとか成功したんだけど、スピンやステップをはさんでの後半最初のジャンプになるトリプルアクセルも、またパンク。
 トリプルルッツ+トリプルトウループのコンボはじめ、三回転ジャンプは全部成功していたけれど、パーソナルベストからはほど遠い低い点数になってしまった。
 トータルの得点でも、秋人くんよりも低くなってしまって今の段階で三位。
 まだ五人も残ってるってことは、去年の四位よりも確実に下の順位になってしまうだろう。

 次の滑走順は、葵くんと中学時代まで同じリンクメイトだったっていう和真くん。
 葵くんの予想外の不調に、電光掲示板を見上げて眉をしかめている。
 でも、たぶん和真くんは、友だちの不調にひきずられたり不安になったりすることは、ないような気がする。
 そう思ったとおり、和真くんは『ニュー・シネマ・パラダイス』の哀愁ただようやさしいメロディーに乗って、やわらかなスケーティングを見せてくれた。
 高難度のジャンプはトリプルアクセルからのコンビネーション一回だけだった(もう一度とぼうとしたアクセルはダブルになってしまった)けど、ほかの三回転ジャンプはすべて成功。
 なによりも、音楽を体で表現するーー踊る才能が和真くんからは、あふれだしている。
 ピアノの音のひとつぶひとつぶを追いかけていくようなステップや、バイオリンのなめらかなメロディーをいっしょに奏でているようなイーグル。
 心にしみいるような感動的な演技に、終わった瞬間スタンディング・オベーションがおこった。
 もちろんこの時点で、和真くんが総合得点のトップに立った。
 
 三番滑走の長谷口さんのフリーの曲は、ガーシュイン作曲『ラプソディー・イン・ブルー』。
 ピアノ協奏曲みたいに、オーケストラとピアノ独奏という形で演奏されるけれど、曲の雰囲気は、クラシックというよりジャズっぽい。
 鼻にかかったような音のクラリネットのソロからはじまって、それにピアノソロが応えるところで、長谷口さんは氷面をけって空中に舞いあがった。
 見事な高さと飛距離の四回転トウループ。
 着氷成功! と思った瞬間に、次のトリプルトウループをふみきって、これも見事に成功させた。
 いきなり四回転からのコンボが決まって、会場中が大歓声にゆれた。
 最初の四回転は決まったものの、二本目の四回転トウループはステップアウト。
 トリプルアクセルも二回のうちひとつで、氷に手をついてしまった。
 けれど、長谷口さんには、曲調の強弱や緩急に合わせて変幻自在なエッジさばきを見せる、超絶ステップという強みがあった。
 和真くんの「踊り心」とはまたちがった、たしかなスケーティング技術にもとづいた「表現力」は、さすがベテランという感じかな。
 曲も長谷口さん本人のキャラもちょっと渋めなので、女性客がキャーキャー歓声をあげるって感じじゃないんだけど、それでも会場は大盛り上がりだった。
 ショートもフリーも和真くんの得点を上回って、長谷口さんが暫定一位。

 この、わりと落ち着いた雰囲気の中で登場したのは、もうひとり瀬賀くんと同い年の桜沢輪くんだ。
 えり元をひもで編み上げたグリーンのシャツと黒ズボン姿で、すべりはじめた曲は『リバーダンス』。
 リバーダンスというのはもともと、アイルランドの音楽に合わせて踊るダンスを中心とした舞台作品のこと。
 体や腕を動かさずに、足の動きだけで踊るアイリッシュ・ステップダンスが元になっているんだけど、フィギュアスケートでも、その足さばきを取り入れた振り付けが人気の曲なんだ。
 民俗楽器のような笛の音に乗ってゆったりと助走をとってから、輪くんは落ち着いた仕草でジャンプをふみきった。
 とびあがった瞬間に成功だとわかる、クリーンな四回転トウループ。
 そこに三回転トウループもつけて、カンペキなコンビネーションジャンプが完成した。
 ゆったりしたメロディーのパートで、もう一度四回転トウループを決めたあと、輪くんがひとつめのスピンを回りはじめた。
 最終グループも選手それぞれに個性があるんだけど、輪くんの一番の見せ場はスピンなんだって。
 キャメルスピンから、ドーナツスピンをとびこえて、女子なみの柔軟性が必要な、フリーレッズを後ろに上げてつかむキャッチフットスピンに持っていく。
 むずかしい姿勢で回っていても、回転速度が全然落ちない。
 高く足をあげたスパイラルをはさんでの、ふたつめのスピンは、足を交差させながら外側にのばした変形シットスピン。
 スピンを終えたところから、だんだん音楽の速度があがっていく。
 その勢いに乗って、両足を開いて高くとびあがるバレエジャンプ。
「え、すごっ! 足が百八十度以上開いてない?」
 思わず優羽ちゃんが口に出したように、とびあがりながら開いた足は、どう見ても百八十度以上開いてたよ。
 そこから歯切れのよいストレートラインステップがはじまり、観客席の興奮がますます高まっていく。
 トリプルアクセルからのコンビネーションジャンプも成功。もしかして、今までミスらしいミスがないんじゃないかな。
 最高潮に音楽が盛り上がるところで、アイリッシュ・ステップダンスをまねして、スケート靴のトウのところで細かくステップをふむ。
 うわぁ、すごいすごい!
 ノーミスのまま、最後まで突っ走っちゃうかも!
 と思って見ていたとき、輪くんは単独のトリプルアクセルの着氷に失敗して、転んでしまった。
 それでもすぐに起きあがって、そのあとのトリプルループはクリーンに成功させた。
 ラストの、フリーレッグを横に高く上げてキャッチするY字スピンの入ったコンビネーションスピンも、ほとんど緑色の竜巻にしか見えないくらい超高速。
 スピンの回転が止まった瞬間に、会場じゅうのいすがガタガタと音を立てた。
 ほとんどのお客さんがスタオベしていたんだ。
 みんなの予想どおり、ミスがひとつだけでPCSが今までの選手の中でダントツだった輪くんが、この時点で一位になった。

 輪くんの点数がでる前、美里さんがウォーミングアップにリンクに入った時点で、客席から黄色い歓声がおこりはじめた。
 なんだか、客席の女の人全員が美里さんを応援しているように思えて、瀬賀くんを応援してくれる人がいるのか不安になってきた。
 お客さんたちが、どの選手にも拍手と声援を贈ってくれることは、もちろん知っているんだけどね。
 新衣装をまとった美里さんは、魔王というよりもヴァンパイアの王子様という感じに見える。
 でも、弦楽器が奏でる不穏なメロディーが流れはじめたとたん、美里さんの雰囲気がガラリと変わった。
 不敵な笑みをうかべながら、両手をたぐりよせるように動かしているのは、地の底から魔物たちを呼びだしているんだ。
 重厚な音色の管楽器が奏でる魔王のテーマが鳴り響く中、魔王・美里さんは衣装の赤いすそをひるがえしながら、四回転サルコウをとんだ。
 スムーズな着氷で後ろに流れていくままに、フリーレッグを高々と上げたスパイラルにつなげていく。
「今のクワドサルコウ、満点の加点がつくかも……。」
 食い入るようにリンク内を見つめたまま、美桜ちゃんがつぶやいた。
 音楽ともカンペキに合ったふみきりで、高さも幅もある回転もちゃんと足りている四回転サルコウをとんだうえに、着氷からスパイラルにつなげるなんてーーこんなすごいジャンプわたしも今まで見たことないよ。
 クワドサルコウ+トリプルトウループのコンビネーション、トリプルアクセル+シングルオイラー+トリプルサルコウのコンビネーション。
 次々とむずかしいジャンプを決めていきながらも、美里さんは魔物をひきいる魔王の姿を演じきっていた。
 近づきすぎた小さな魔物を炎でこがしながら、魔王は高くとびはね、自らの回転で炎の渦を描き、なめらかな足さばきで踊り狂う。
 魔物たちが魔王をあがめて踊るダンスもだんだん盛り上がっていき、ついには威厳あふれるファンファーレに合わせた大行進がはじまった。
 どこをとっても、おどろおどろしい旋律ばかりの曲だし、振り付けもあやしい形の変形スピンだったりするのに、それでも「気持ち悪い」という感想はまったくでてこない。
 おそろしいけど美しい……きっと美里さんにしか表現できない世界が、リンクの中に広がっていた。
 鐘の音がして、朝の光がさしてくるのをあらわしたフルートのやさしい旋律が響きわたると、重々しく直線的だった美里さんの動きがしなやかに変わった。
 ゆるやかなシットスピンから起き上がり、観客席のほうに片手をさしのべたその表情は、純粋な若者のまなざしになっている。
 これってたぶん、呪いをかけられて夜の間だけ魔王になってしまう、王子様の物語だったんだ。
 ファイナルのときは、(熱を出してしまって生では観られなくてあとで録画を観たんだけど)魔王は魔王のままで、ラストは「朝が来て眠りにつく魔王の姿」に見えていたんだけど。
 この二週間で、衣装だけじゃなくて曲の解釈まで変えてしまうなんて、すごすぎるよ!
 なにより、ジャンプもスピンもステップも、すべてのエレメンツがカンペキだった。
 ノーミスなうえに、この表現力。
 こんなの、きっとだれも勝てない……。
 スタオベして拍手はしているけれど、瀬賀くんのことを思うと、ついうなだれてしまう。
 そんなとき、急に声が聞こえた。
「かすみちゃんが『勝てない』なんて思ったら、冬樹を信じる人は、だれもいなくなってしまうわよ。お願い、信じてやって。冬樹は、だいじょうぶだから。」
 ハッと顔を上げると、前の座席の背もたれの上あたりに、花音さんがフワフワ浮かびながらわたしを見つめていた。
「だ、だいじょうぶ。瀬賀くんはきっと、勝てます。」
 思わず声に出してしまったので、左右の美桜ちゃんと優羽ちゃんからは変な顔で見られちゃったけど。
 花音さんは満足そうにうなずくと、フッと姿を消した。
 キョロキョロと見渡したら、リンクの手すりごしに瀬賀くんと話をしているフォレスト先生のとなりに、花音さんは一瞬で移動していた。
「ひとりごとにしては大声すぎるけど……そうね、言霊(ことだま)ってほんとうにあるらしいから、口に出すのもいいかもね。」
 美桜ちゃんがそういってくれたので、ホッとしながらうなずいた。
 
 さっきまで一位だった輪くんに、二十点以上の差をつけて、予想どおり美里さんがトップに立った。
 この点差をはねのけて優勝するためには、瀬賀くんの今までのパーソナルベストを大幅に更新しなければ無理だった。
 それでも、瀬賀くんもフォレスト先生も、全然あきらめたような顔はしていない。
 ふうっ、と息をついてからリンクの中央にすべっていきながら、瀬賀くんはまた、衣装の胸のあたりを強くにぎりしめていた。
 そこに、花音さんからもらったお守りのペンダントがあることを、知っているのはわたしだけ。
 たぶん今、瀬賀くんが心の中でとなえているのと同じ言葉を、わたしも心の中でとなえる。

 ーーだいじょうぶ! きっとできる! 自分を信じて! ーー

 花音さんも両手を胸の前で組んで祈りながら、じっと瀬賀くんのほうを見つめている。
 ファイナルのときと同じ、胸元にジャボというフリフリの飾りをつけた王子様衣装で、瀬賀くんは演技開始位置に止まり、ポーズをとった。
 流れだしたのは、つややかなヴァイオリンの響き。
 メンデルスゾーン作曲『ヴァイオリン協奏曲』、第一楽章のメロディーはすごく有名で、たいていの人は一度は聞いたことがあるはずだ。
 メインテーマのメロディーに乗って、最初に挑戦するジャンプは、今まで演技した選手のだれも挑戦していない四回転ループだ。
 ループジャンプは、左足を前に出して少ししゃがんだような姿勢から、右足のエッジで氷を突きはなすようにしてとびあがるジャンプだ。
 左足のトウで氷をけってとびあがるトウループジャンプよりも、明らかに勢いがつけにくいジャンプだ。
 基礎点ではフリップやルッツのほうがむずかしいことになっているけど、それは三回転までのことで、四回転になると、トウを突いて勢いがつけられないループをとぶほうがむずかしいかもしれない。
 瀬賀くんも、練習では何度もクリーンな四回転ループをとんでいるけれど、試合ではぐんと成功率が落ちてしまう。
 この全日本の緊張感の中で、いつもどおりにとべるだろうか。
 いつもよりも速いぐらいのスピードに乗った助走から、沈みこむように体をひねりながら、瀬賀くんは氷面をふみきった。
 これならきっと、だいじょうぶなはず!
 その予感どおり、高くとびあがったクワドループは、しっかりと回転軸を保ったままおりてきた。
 カンペキなクワドラプルループが決まった瞬間、大歓声がリンクをつつみこんだ。
 瀬賀くんは、そのまま軽くステップをふみながら、ふたつめのジャンプへと進んでいく。
 流れるようなヴァイオリンの旋律に対抗するように、オーケストラの合奏が大きな和音を鳴らすところで、タイミングぴったりの四回転サルコウが決まった。
 あれ? ここってクワドサルコウからのコンボだったはずなのに……。
 そう思っていると、以前は単独の四回転トウループを入れていた場所で、瀬賀くんはクワドラブルサルコウからダブルトウループへのコンビネーションジャンプを決めた。
 地響きのような歓声と拍手が、さっきからずっと鳴りやまない。
 だって、今までどのジャンプもスピンもステップも、全部成功しているんだから。
 二楽章のスローパートでは、キャメルスピンからなめらかにドーナツスピンに移り、男子にはめずらしい柔軟性を見せつけた。
 あとは、弾けるような楽しいメロディーが続く、第三楽章のパート。
 ……なんだけど、ここまでの間に、今までなら前半にとんでいたはずの四回転トウループをとんでいないことに気がついた。
 後半には単独のトリプルアクセルと、トリプルアクセルからのコンボがひかえているというのに、そのうえ四回転トウループまで入れるつもりなんだろうか。
 心配しながら、思わず両手を組み合わせて祈るように見守る。
 でも今日の瀬賀くんは、わたしのちっぽけな不安なんてふっとばして、豪快にクワドトウループを決めてしまった。
 すごいすごい!
 ここまでノーミスだし、たぶん……いや「たぶん」じゃなくて「確実に」、ジャンプの基礎点は美里さんに勝ってるよ!
 わたしだってもちろん、フィギュアスケートはジャンプだけじゃないことはわかっている。
 だけど、こんなにむずかしいジャンプをカンペキに決め続けているんだから、今日の瀬賀くんは、美里さんに勝ってもおかしくないと思うんだ。
 最後の最後に持ってきた、トリプルアクセルからのむずかしいコンビネーションジャンプで、瀬賀くんは着氷後に少しだけバランスをくずして、右手の指先が少しだけ氷に触れてしまった。
 ほんとうに、ミスらしいミスは、そのひとつだけ。
 王子様衣装に恥じないような優雅な身のこなしも、ヴァイオリンの音色にとても似合っていたし、これならPCSも高得点になるはず。
 息をはずませてキスクラで点数を待つ瀬賀くんのそばで、まだ両手を組んで祈っている体勢のまま、花音さんがフワフワと宙に浮かんでいた。
 うわぁ~っ、という大歓声とともに表示された得点は、今までの瀬賀くんのパーソナルベストを大幅に上回っていた。
 ……んだけど……それでも、たったの一点だけ、美里さんの総合点には届かなかったんだ。
 少しだけタメ息のまじった、瀬賀くんの健闘をたたえる拍手が鳴り響く。
 ちょっとだけ泣きそうになってしまったけど、キスクラで立ち上がって両手を振っている瀬賀くんが、ほんとうにさわやかな笑顔だったから、わたしも必死で涙をこらえた。

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